時の旅人

  昭和40年代の美しい日本の風土の中を力強く、軽やかに またある時は、あえぎながら峠に挑む蒸気機関車たちの記録です。
蒸気機関車は、機関士・機関助手・愛しみながら整備する人、保線する人たちに支えられ、私たちの期待や不安、喜び悲しみやさまざまな心を乗せて走りました。 蒸気機関車は見る人々に懐かしい思いを蘇らせてくれると共に 私達の「心のなかに」 生き続けるのではないでしょうか。

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JapaneseSince:Sep,1996 English Chinese Korea
最終更新日 Sunday, 2023/6/18


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驀進
驀進
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驀進

羽幌線・古丹別―力昼・昭和44年1月(1969/1)D51

力昼駅(無人駅)に降り、チャント閉まらないガラス戸の小さな待合所にカンジキが2足。 “御自由にお使い下さい”の張り紙といっしょに。

カンジキとは?

雪のすれちがい
雪のすれちがい
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雪のすれちがい

関西本線・加太・昭和45年3月(1970/3) D51

春の淡雪の中でのすれ違いですが、私の住む大阪では3月にはあまり雪を見る事はありません。
しかし関西本線の鈴鹿の近くまで来ると雪にあう事があります。

絵のような景色の中を
絵のような景色の中を
地図
絵のような景色の中を

小海線・清里―野辺山・昭和47年5月(1972/5)C56

標高1432Mの高原列車。国鉄最高点はここ野辺山です。
最近思うのですが、この場所を訪れてみたいと・・・・・
ずいぶんと変わったんでしょうね。

    機関室から
    機関室から
地図
    機関室から

東洋活性白土・構内線・昭和49年10月(1974/10)


東洋活性白土は糸魚川の駅から近いけれどわかりにくいところだったと覚えています。
きれいに掃除された事務所に伺い記帳の後、50前後の紳士に丁重な説明を
して頂いき恐縮した記憶があります。機関車も敷地内も掃除が行届き、
そこに働く人たちの人柄がしのばれ、気持ちよく撮影させて頂きました。

機関士さんにも色々とお話を伺えました。
また糸魚川の積替えホームまで、あの狭い機関車に私と家内の二人を乗せて頂きました。
私たちにとってたいへん思い出深い旅でした。

スワローマーク
スワローマーク
スワローマーク

函館本線でニセコを牽引するのは、C622のみではないが、スワローマークの由来について説明します。
C622(昭和23.5.29新製)にのみ取り付けられた除煙板の“つばめ”のマークは、 昭和26年の修繕の際に新設されたもので、東海道線における特急“つばめ”牽引は一段と栄えあるものであった。 京都電化によって、昭和31.9.12に特別休車となったC622は、昭和32.1.20鷹取工場で新製ボイラーを乗せ北海道へ渡ったが、 この時“つばめ”のマークを取り外すかどうか議論されたが、 結局“つばめ”を引くという意味ではなく国鉄のシンボルマークと解する結論で そのまま取り付けておく事になったのである。
大きな使命を果たしたC62は、C621・C622が梅小路、C623は北海道苗穂、C6217は名古屋市東山動物園、C6226が大阪の交通科学館で保存されている。

国鉄史上最後に登場したC62は、まさに蒸気機関車の最後を飾るにふさわしい花形役者であった。

   えりもにて
   えりもにて
地図
   えりもにて

日高本線・様似・昭和48年7月(1973/7)C11

北海道でも“えりも”まで行くと、「のどか」と言うより寂しかった。
昭和48年と言えば“SLブーム”で結構SLの撮影人口はありましたが、えりもでは見かけませんでした。 この旅行は日高をメインに、静内、日高三石、絵笛(SLとサラブレッド)そして様似とゆっくり行程で、 えりもの初夏を楽しみました。 撮影旅行も昭和45年ぐらいまでは、一度出かけると“あそこも、ここも”と気ぜわしくまわりましたが、 この頃になると“ゆっくり”モードでした。

雪に埋もれて
雪に埋もれて
雪に埋もれて

三美運輸(美唄)昭和46年1月(1971/1)1号

いい顔
いい顔
いい顔

形式写真みたいですが、形も楽しい機関車です。三美運輸の「b6」と
美唄鉄道のe形タンク機 4110形で、石炭輸送に重連で活躍していました。
美唄-常盤台間の10.6kmのわずかな距離でしたが、昭和47年5月31日、
明治39年以来の歴史を閉じました。

動!!C58
動!!C58
動!!C58

和歌山線・昭和47年3月(1972/03) C58

3月も後半だというのに雪がちらつき、寒い・暗い日でした。

Bコロ(ビッコロ)
Bコロ(ビッコロ)
Bコロ(ビッコロ)

鹿児島本線・鹿児島機関区・昭和45年1月(1970/1) B20

戦後すぐの材料不足の厳しい時代の生まれ。
動輪2、総重量20tから無造作にB20と名づけられる。
プレートもベニヤ板であった。

鹿児島機関区
鹿児島機関区
鹿児島機関区

鹿児島本線・鹿児島機関区(かごしま)・昭和47年8月(1972/08)

C61 2の現役時代です。
今も梅小路で時々外で走っていますが、この写真は、もう30年も前の写真なんですね。(2002年アップ)

今日からなら 51 年前です。


蒸気機関車は、日本の鉄道の第一走者として明治5年10月14日に新橋で汽笛を響かせ戦後の昭和21年には、5958両が日本中で活躍しました。しかし昭和44年には、1893両となり昭和49年末には保存機を除きその姿を消す運命でした。(実際に姿を消したのは昭和51年でした)
昭和45年には大阪で万国博が開催され、日本中が高度成長の波に乗り繁栄していく中で、第一走者である彼らに合理化の波が容赦無く押し寄せ、時のかなたに押しやってしまいました。そんな昭和40年代に私は蒸気機関車と出会い日本中おっかけをしました。
『蒸気機関車の魅力は何ですか?』とよく質問されますが私はいつも『好きだから』と答えます。力強さとか、いかにも人間臭いとかもありますが、私は恋人ができ『なぜ好きなんだろう』と考えることがないのと同様『ただ好き』それだけだと思っています。
彼らに哀愁を感じるのではなく、彼らの現役としてのありのままの姿に会いたくて休みの日には出かけました。

* 真冬の北海道での体験 *(けむりのページのタイトル写真
石北本線、常紋信号場に着いてめざす貨物列車が上がってくるまでに、まだ1時間以上の時間がある。零下30度以下の厳寒の中では、じっと立って機関車がくるのを待っていられない。走り回ってからだを動かしていないと、どうしょうもない寒さ。鼻の中が凍る、眉も真っ白、口のまわりに巻いているマフラーは凍ってつららができている。大阪育ちの私には考えられない寒さでした。やがて急坂をあえぎあえぎ、蒸気機関車が雪をはねのけやってくる。“カシャ”シャッターを切った瞬間、時間の止まる一瞬です。現在では、やまぐち号や大井川鉄道等で機関車は活躍していますが、私はやまぐち号にも会いに行った事がありません。これは趣味のわがままと言われますが、イベント列車は何か見世物的でさびしく感じるからです。
そんなわがままな趣味のページですが御意見や御希望があればお聞かせ下さい。 (96年9月記)

しかしSLが現役を引退して20年以上経った今、復活し活躍しているSLの写真も載せていこうと思っています。(98年9月記)
蒸気機関車の引退は、今日からなら 50 年前です。

新緑の真岡鐵道と大井川鉄道で、いつか見たような、忘れかけていた風景に会えました。
蒸気機関車の現役時代に「旅」をしていた私にとって、真岡は懐かしさにタイムスリップさせてくれました。
大井川でも、お茶畑のあぜでお弁当を食べ、大井川の河原で水遊びを楽しみました。
普段の忙しさが、嘘のような時の流れです。(99年5月記)

川口 明彦@東大阪市


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